号外すいかとかのたね

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高野文子「美しき町」の美しさ(3)

お久しぶりです。

途中で止まってしまっていた高野文子『棒がいっぽん』収録の短編「美しき町」についての記事を書き終わらせようと思います。

 

前回までの記事はこちらです。

suikatokanotane.hatenablog.com

suikatokanotane.hatenablog.com

 

 

 

・多彩な視点の動きと切り取り

・連続したコマの時間の動き

・手前奥の表現

・グラフィカルな切り取り

・フラッシュバック

・大胆な省略

 上記の6つのポイントに沿ってこの短編での高野文子の技術を書いてきましたが、今回は最後の二つについて書こうと思います。

 

 

  • フラッシュバック

この短編では基本的に直線的に時間が進んでいきますが、冒頭で出たシーンが終盤でフラッシュバックのように出てくる場面があります。

それがこのページです。

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前回の「手前奥の表現」でも挙げたコマが含まれていますね。終盤で二人が静かに夜明け前のひと時を過ごす場面です。漫画内の時間はナレーションに導かれるように進んでいきますが、ふと二人での散歩のワンシーンがフラッシュバックのように挿入されます。このさりげなくも効果的な入れ方は見事です。漫画内で”今”起きている出来事と時間軸上で離れた出来事を相関関係でつなぐ方法として非常に巧みです。イケてる。

例えばこのフラッシュバックがない状態(夜明け前の場面のままコマが進んでいく)を想像してみてください。それでもこのナレーションの意味はおそらく通じます。ですが、その状態のときに表される内容と、フラッシュバックのコマがある状態の内容では、感じとれるものが違うのではないでしょうか。この絵が入ることによって、ナレーションの文字を追うだけでは出せない時間の広がりや思い出の切なさや輝かしさが表現されています。文字(ナレーション)と絵の間に少し距離を作ることでより豊かな表現になっているのです。

さて、ここで一つの疑問が浮上します。このフラッシュバックは一体誰が思い出した映像なのでしょう。それとも誰かの思い出とは違うものなのでしょうか。普通に読めば、夜明け前の二人、あるいは「三十年たったあと」の二人が思い出したものののように思えます。ですが、このフラシュバックの引いた視点はどうも二人のものではないようにも思えます。不思議ですね。これに関しては、この短編全体についてのある想像をお話したいのですが、それはこの記事の最後に回したいと思います。

ここでまた注目したいのはこのフラッシュバックがクローズアップしていくのが二人ではなくて花であるということです。これはアザミの花でしょうか。二人の足元で咲いています。

記憶というのは不思議なもので、何の気なしに見ていたものが意外に記憶に残っていたり、またはそれが記憶を引き出すきっかけや入り口になることもあります。時間が経ってふと思い出した昔の記憶の一部がたまたまそこに咲いていた花であるということも大いにありうるでしょう。僕も、3歳の時に通っていた保育園を思い出そうとしても、当時使っていた弁当箱ばかり克明に思い浮かんできたりします。まあそれはともかく、こういった細かい描写に高野文子の精緻な観察眼や感性を感じることができます。きっと普段から些細なことを見逃さない目で見ているんでしょう。そういえばこの短編集には人間の家で借りぐらしをするコロボックルの漫画もありました。彼女の作品に感じるハッとするリアリティはこういうところに潜んでいるのではないでしょうか。

 

 

  • 大胆な省略

次に高野文子の醍醐味とも言える、限りなく省略されたセリフ回しについて考えていきたいと思います。まず下のページを見てみてください。

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 このページの構図、コマ割りの興奮するくらいのダイナミズムはさておいて、このセリフについて、(今これだけ見ても意味が分かるわけはないのですが、)最初にここを読んだ時、僕にはこのセリフが何のことを言っているのかわかりませんでした。(もちろん僕の理解能力の不足もありますが)

これは、少し前の場面で井出さんという隣人に意地悪なことを言われた夫のノブオさんを気遣ったサナエさんのセリフなのですが、面白いのは、ノブオさんが意地悪を言われてからこのセリフが出てくるまでの何ページかの間、二人は一切この話題に触れていなかったということです(この直前でサナエさんは関係ない世間話をしています)。何についての話題かも言わず、急に何ページか前の場面の話をし出すサナエさんに間髪入れず答えるノブオさん。これを見るだけで二人は何も言わずとも同じ事をずっと気にしていたことが伺えます。二人だけに通じていた共通の思いがあったというわけです。

しかし多くの読者はこの場面で一瞬混乱するでしょう。唐突なセリフで何の話題かが見えなくなるからです。しかしそこで少し考えれば何の話題か分かるはずです。その加減が絶妙なんです。

この場面では、行間を読者に想像で補わせることで、無駄な説明ゼリフを省くと同時に、二人の関係を描写することもできています。ただ難解にしているわけではなく、無駄を削いでいくことで、ことばの外の豊かな情感を生み出そうとしているのです。これは先ほどのフラッシュバック表現でも触れたことですが、絵と言葉の間、そして言葉と言葉の間に隙間を作ることが逆に豊潤な表現を生むというのが面白いなあと思います。
このような省略の手法は高野文子の作品において全般的に行なわれています。このセリフ回しの感覚は高野文子フォロワーと言われる市川春子にも受け継がれている部分なのではないかと思います。物語を読み解く楽しさが生まれるので、ついこのようなブログを書きたくなってしまうわけです。

 

 

 

さて、ここまで3回に分けてこの短編の表現方法について書いてきましたが、内容についても少しだけ触れてみたいと思います。

この作品の中で描かれている時代はおそらく高度経済成長の前期あるいは直前あたりでしょう。工場のある町と、その従業員たちが住む団地がこの物語の主な舞台です。ですが、なぜこの時代の物語を描いたのでしょうか。

この短編が最初に発表されたのは1987年の『プチフラワー』10月号のようです(『ユリイカ』とWikipediaを基にした情報)。この時高野文子は29歳。11月が誕生日だそうですのであと1ヶ月ほどで30歳になろうというところです。あれ?この数字にピンときませんか?そうです、先ほどの画像にありました、作中のクライマックスでのナレーションで「たとえば三十年たったあとで」という言葉が出てきます。

そう考えてみると、この物語のサナエさんノブオさん夫妻の年齢はちょうど高野文子の親世代とぴったり一致するのではないでしょうか。

先ほど僕が少し匂わせた「この短編全体についてのある想像」とはこのことです。つまり、この作品は高野文子が自分の親について描いた物語ではないか、という想像です。

でも結論を急ぐ前に、この作品が描かれた時代の1987年についても考えてみるとこの時代設定の意味がさらにわかってくるかもしれません。1987年は、バブル景気が始まろうとしているその時です。データ上ではバブル景気は1986年12月から1991年2月までとなっていますが、実際に人々が好景気を感じ始めたのは1988年ごろからだと言います。つまり1987年はまさにバブル前夜。その時代に描かれたこの物語にどのような意味が出てくるのでしょうか。

先ほど書いたように、この物語の時代は高度経済成長の前期、あるいは前夜に見えます。この後の時代でさらに経済が盛り上がり、町が栄えていき、一方で公害が起こり…という未来を高野文子は知っています。その上で、その喧騒にのまれる直前のある静かな夜を過ごす夫妻を描いています。もしそれが自分の親だとしたら。そして現在(1987年)自分が置かれている時代と同じものを感じているとしたら。

好景気、そして喧騒の予感を感じながら、同じ状況にあった自分の親について思いを巡らして描かれた作品がこの「美しき町」である、というのが、この物語についての僕なりの結論です。「美しき町」というタイトルはその後経済成長とともに失われていく美しさへの皮肉のようにも思えます。

この短編の全編を導くナレーションも、登場人物たちに親しみを持ちつつも三人称の視点で進んでいきます。これが二人の娘たる高野文子によるナレーションだとしても、しっくりくるのではないでしょうか。とすると、先ほど取り上げたシーンでのフラッシュバックの引いた視点、これももしかして娘のものだったり。なんていう想像もアリじゃないかと大真面目に思っています。

 

以上、高野文子「美しき町」についての一考察でした。素晴らしい作品ですので、読んだことのない方も是非読んでみてください。 

 

 

画像は全て高野文子『棒がいっぽん』 (マガジンハウス)「美しき町」より 

 

 

中山望 

 

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