すいかのラヂオ補足:中村悠一郎「エデュケーション」
こんにちは。漫画雑誌すいかとかのたねの編集長・中山望です。
この記事では、我々がやっているpodcast・すいかのラヂオの「第11回 美術作品《ガチャむらやⅡ》(ゲスト:中村悠一郎)」の補足として、漫画雑誌『すいかとかのたね』2号(2015年)に、中村悠一郎が描いた4コマ漫画「エデュケーション」を全ページ公開します。
教科書の図版をパクリ・サンプリング・コラージュ・アプロプリエーション(言い方はなんでもいい)した革命的(中山談)4コマ漫画がこの「エデュケーション」です。
と大仰に言いましたが、とぼけててシュールな味の4コマ漫画です。ではどうぞ〜。
以上です。どうでしょう。
教科書の図版の持つこっけいさが、サンプリングの組み合わせとアイデアによって、不思議なかたちで浮き上がってくるようです。批評性もありつつ、「義務教育」という最強のあるある・共通の記憶を利用した、広い射程範囲を持つ漫画であると僕は思っています。
4コマとしても、オチてなかったり投げかけて終わったりと、和田ラヂオや吉田戦車的?でもあるシュールな部類の構成になってますが、そこに教科書の図版の妙な真面目さが加わることで「マジメにフマジメ」(©︎かいけつゾロリ)な感じになってるのがすごく好きです。
この原稿があがってきて初めて読んだ時、「これどうやって作ったんだ…」と笑いと静かな感動があったのを覚えています。
ここで読んだ方も楽しんでいただけていたら幸いです。本誌も買ってね!
さて、「すいかのラヂオ」はiTunesのpodcastのアプリで「すいか」で検索してみてださい。
または、podcastが聞けない方はこちらのnoteから。
今回のpodcastで出てきた中村の原点「しょうもないガチャ」のサイトはこちら。
今回のpodcastでは彼の最新の作品《ガチャむらやⅡ》を特集しましたが、2019年4月現在、彼はガチャガチャを携え、実家のある福島県からだんだんと南下しつつ、街で簡易的な《ガチャむらやⅡ》を広げ、会った人々を相手に、今回のpodcastのような問答を出しながら活動しているという、流しの旅人のような状況になっています。一体どういう風に展開していくのでしょうか、楽しみです。
活動のご依頼の連絡は彼のTwitter、あるいはこちらのメールアドレス suikatokanotane@gmail.com までご連絡ください。
詳しくは中村悠一郎のTwitterを参照してください。面白いのでフォローすると吉です。
【クッキングパパからの告知】
漫画雑誌すいかとかのたねはこちらで買うことができるゾッ!
今回の漫画の他にも色々な漫画が載っている!しかも分厚いゾッ!
うまいゾッ!!!!
ではまた、次回の「すいかのラヂオ」をお楽しみに。さようなら。
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望月ミネタロウのサンプリング元を探す
こんにちは。漫画雑誌「すいかとかのたね」の中山望です。
なんとなく気になっていたことを書き留めて共有したい気持ちがあったので、望月ミネタロウ(望月峯太郎)という作家について少し書こうかなと思っています。
面白い作品だらけの人だけれど、今回扱うのは「望月ミネタロウ」に改名後の2作品『東京怪童』と『ちいさこべえ』のみです。
望月ミネタロウは、近年の作品での洗練された描線やキャラクターの動きの不思議な硬さ、コマ割りやセリフの独特のリズムなど特徴の多い作家だけれども、作品に出てくるキャラクターのアクの強さも一つの大きな特徴ではないかと思います。
(近年の)作品に出てくるキャラクターたちは魅力的であるものの、生き生きとしているというよりもむしろ作り物的な存在感を放っています。表情の少なさやポージングがフィギュアのようで、キャラクター自体が演技をしている、あるいは作者によって動かされているような感覚があります(もちろんすべての漫画のキャラクターは作者によって動かされているわけだけど…)。
だからといって漫画が単調でだというわけではないのが面白いところです。
望月作品のキャラクターは、アクが強いゆえに作品内で衝突や齟齬を起こします。その衝突や齟齬が物語の軸になっているのが、先ほどあげた2作『東京怪童』『ちいさこべえ』だと思っています。
そのキャラクターたちのアクの強さは、ビジュアル的な強さに起因するところも大きいのではないかと僕は思っているのですが、それらのビジュアルの生成の手法の一つに、サンプリングがあるのはまず間違いないでしょう。
彼は作品のなかで、キャラクターのビジュアルを(主に)アメリカのポップカルチャーから引用しています。
そもそも彼の近作の線や表現は、ダニエル・クロウズなど欧米のコミック、グラフィックノベル作家に影響を受けているので、当然欧米(特にアメリカ)からの影響が作品のなかに見て取れても別に不思議ではありません。ただ、そこにわかりやすいサンプリングがあると気づいてからは、それを探すのも楽しみのひとつになりました。
ということで具体的に見ていきましょう。
まず『東京怪童』から。
この二人は、作品の舞台となる精神病院にいる健忘症の患者と、警備員(なのか患者なのかはっきりしない)。それぞれわかりやすい元ネタがあります。
健忘症の患者の方は、映画『ナポレオン・ダイナマイト』(ジャレッド・ヘス)(04)の主人公ナポレオン・ダイナマイト(ジョン・へダー)。
ちょっとかわいそうだけどひたむきなキャラクターは元ネタとも通じるところがあるかも。
警備員は、『ゴーストワールド』(テリー・ツワイゴフ)(01)に出てくる、ヌンチャク男ダグ(デイヴ・シェリダン)。
服装は違うものの、テンションが高く喧嘩っ早いキャラクターが似ているうえ、明らかに同じシーンも存在します。
ヌンチャクとモップのバトル。同じです。
それから、『ゴーストワールド』は先ほど名前をあげたダニエル・クロウズが原作・脚本の映画であることもポイント。
次。これは病院の患者の中でももっとも重い症状をもつ女の子。自分以外の人間が認識できないので、一人きりの世界に住んでいます。
これは『リトル・ミス・サンシャイン』(ヴァレリー・ファリス、ジョナサン・デイトン)(06)のオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)からでしょう。天真爛漫なキャラクターは同じですが、『東京怪童』のこの子はかなり切ない境遇。
次は『ちいさこべえ』から。
この主人公の茂次の長髪ヒゲ+サングラス+ヘアバンドルックはまさにこれ。
『ロイヤル・テネンバウムス』(01)のリッチー(ルーク・ウィルソン) 。
感情の表出は少し違えど、ナイーブな性格は共通しているし、ヒゲを剃るところも同じです。
そしてなによりウェス・アンダーソン監督作品です。
望月ミネタロウが今やっている『犬ヶ島』のコミカライズへの布石がここにあったのでは…?
こちらは茂次が引き取ることになった孤児の一人。
これはわかりやすいかも。
『アダムス・ファミリー』(バリー・ソネンフェルド)(91)のウェンディ(クリスティーナ・リッチ)です。妙に大人びたキャラクターが元ネタとマッチしてます。
このように比べていくと、見た目以外の部分でも共通点をもたせている、あるいは元ネタのキャラクターを完全に振り切ることはできないということがわかります。だいたいの場合において元ネタのキャラクターを受け継ぐような配置がなされているのです。
次はこちら。左下のコマのおじさん。漫画を読むとわかるが、かなり気持ち悪いキャラクターである。
これはちょっと確信が持てていないが、
トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンでしょうか…違う…?(違うよ!っていう人がいたら教えて欲しい)
このキャラクターに関しては本人とのキャラクター的なリンクはあまり認められないし、無理やり当てはめただけで、正解が他にありそうな気もしている。
——
※追記:この記事を公開してすぐ、こちらの元ネタに関する情報を教えてくださる方がいたのでそれを記載します。デザイナー・イラストレーターの惣田紗希さんの過去ツイートで触れていたそうです。まさにドンピシャでした。
望月ミネタロウ『ちいさこべえ』は代々引き継ぎたいほど愛してる漫画なのですけど、イタリアの建築雑誌『domus』の2010年次の表紙の肖像画?と『ちいさこべえ』のキャラクターが一致してる件、既出ですか?今日発見して興奮してるのですが… pic.twitter.com/6fHJr1P9DS
— 惣田紗希 (@soudasaki) December 11, 2017
——
さて、僕が見つけられたのはここまででしたたが、これだけでも望月ミネタロウの趣味の方向が少し伺えます。
アメリカのインディペンデントな文化圏からの引用が多いのは納得できます。けれど、ほぼまんまな見た目のキャラクターでも、漫画の中に配置されると元ネタとは違った魅力を見出せるという点は、サンプリングという手法のあるべき使い方という感じがしますね。
また、キャラクターのサンプリング他にも 、
『ちいさこべえ』には、登場話ごとに違う柄だが、かならず『シャイニング』(スタンリー・キューブリック)(80)にまつわるTシャツを着ている少年なども出てきます。
そして途中でも触れましたが、ウェス・アンダーソン作品からの引用は、現在『モーニング』で隔週連載中の『犬ヶ島』のコミカライズを想起せざるを得ない。公式に漫画を描くというこの仕事が決まった時には望月先生、嬉しかったのではないかしら…。
この『犬ヶ島』、映画を見た皆さんはぜひチェックしてみるべきです。また新しく変わりつつある望月ミネタロウの絵柄が興味深いです。
こういった文脈をふまえると、これらの作品では作者の趣味バルブが全開なのがよくわかります。ポップカルチャーからの引用ではないにせよ、初連載の『バタアシ金魚』から趣味は全開だった気もするけど。
元ネタのありそうなキャラクターはまだまだ多いのでサンプリングの元ネタ探しは継続して行なっていきたいです。ここに追加していきたいので、みなさんも見つけたら連絡ください。よろしくお願いします。
読んでくれてありがとうございましたー。
おまけ
小津安二郎オマージュも。
コミティア124の振り返り/気づいてくれる人たち
先日5月5日のコミティア124で「すいかとかのたね」のブースにいらした方々、買ってくれた方々、本当にありがとうございました。
新刊5号を発行して、久々に力の入った活動をしたので少しはみなさんの目にとまることもあったかもしれません。今後も通販などで5号は売っていきますので、よろしくお願いいたします。
さて、コミティアで感じるあきらめと喜びの話をちょっと書いておきます。
作った雑誌の販売について考えるとき、僕らのなかでいつも話題にあがるのが、「自分たちにとってコミティアはホームなのか」ということです。
コミティアに出る時はいつも「売れてやるぞ〜」という気持ちでいるのだが、帰りにはいつも「ここでは我々は浮いている…」という気持ちになっている。
今回の帰り道でも、当日のブースでもらった嬉しい感想について話したあと、自分たちがなぜ浮いているのかを話しながら打ち上げへと向かいました。
今回は4号・5号・別冊合わせて50冊弱くらい売れて、1000円近い冊子の売り上げとしてはまずまずだと思うものの、本当はもっと売るつもりでいました。
そのために宣伝をし(ツイッターでうるさく感じた人すみません)、ブースの設営のシミュレーションもし、木版の手刷りで紙袋を作り、どうやったらあの場にいる人たちに響くのかを考えながら、自分たちなりに寄せていこうとしていたのです。
もちろん、その前提として本自体はいいものになったと思っています。ありがたいことに、嬉しい感想もいただきましたし、そこには少し自信もありました。
ただ、どっか諦めの気持ちもあって、(コミティアに出ている多くの人があの場の空気をどう感じているのかわからないけれど)僕はいつも、コミティアと自分との間には埋めがたい溝があるような気で準備したり売ったりしています。嫌いとかでは全然なく。
そのうえで、コミティアに来ている人のなかにまだ「届けば響くはずの人」がいると思っているので、本の内容は変えずにその人たちに届けたいという気持ちでいます。
しかしやってみて思うけれど、そのへんはかなり不器用ですね。
宣伝をしていても、ブースに座ってみても、あまり思ったような反応は得られない。きっともっとうまいやり方があるのでしょう…。
ある時からは、コミティア以外のフィールドも探していくという方向に目が向くようになっているので、今後はコミティアの他にも自分たちが面白くやれるところを見つけたいなーと思っています。
そんな感じの一方で、届くべくして届いた人のなかには、コミティアで知って全号買ってくれている人や、1冊を何度も読んでくれた人なんかもいて、作ってよかったと、自分たちが肯定されたような気になります。今回も、何人かの方々からそういった反応がもらえたことは本当によかった。
そのなかで、少し驚くようなことがあったので記録しておこうと思い、このブログに書くことにしました。
それは、『ゆうとぴあグラス』という合同漫画雑誌のブースに僕が5号を持って行った時のことです。
『ゆうとぴあグラス』は1〜2年くらい前のコミティアの時に知りました。漫画のクオリティが高くて良くて、好きな雑誌です。そして、コミティアにおいて自分たちとの共通点みたいなものを(勝手ながら)感じている、数少ないサークルでもありました。
今回は7号が出るということで、あらかじめ買おうと思っていましたし、せっかくだから交流できたらいいなという感じで僕らの新刊を持っていくことにしました。
(書き忘れないように)『ゆうとぴあグラス』7号、かなりよかったです。
ブースには、今回の7号に参加している作家の5人中4人が揃っていました。その中で、黒木雅巳さんと森田るいさんと主に話しました。
雑誌の中でも僕は二人の漫画がとくに好きで、特に森田さんの、去年発売した傑作『我らコンタクティ』(講談社)に感激していた身としては、本人に会えた喜びもひとしおでした。
黒木さんは我々の存在自体は知ってくれていていましたが、こういうちゃんとした人たちから見たら我々は結構しゃらくさいよな、となぜか卑屈になってしまうところもあって…なのでマジで持って行って話せてよかった!
それはともかく、お二人に5号を見せた時に「1000円じゃ安いよ!」という反応をもらったのが僕としては驚きでした。
なぜならそれは自分たちでも考えていたことだったから〜…!!
ホントは利益がほとんどなくなってしまう価格設定ですが、高いと思われることの方が断然多いと思います(そもそもコミティアの多くの冊子が労力のわりに安すぎるという背景もありますが)。
なのに森田さんが言ってくれた「1200円でも買う」という言葉なんて、本当に額もそのまま、作っているときに「このくらいで売れるものを作ろう!」と設定していた金額でした。すごい。
その後も、ブースに来てくれたお二人がすさまじかった。ブースを褒めてくれ、4号の小口と表紙のスプレーに気づいてその手間をねぎらってくれ、コミティア用に用意した紙袋を褒めてくれ、さらには4号と5号を買ってくれて、とにかく、そのあまりにかゆいところに手が届く言葉の数々に触れて、ほぼ絶頂に達していました…。
こちらから言うでもなく、瞬時に次々と気づいてコメントしてくれるお二人を見て思ったのは、この人たちと自分たちとは、似た文脈を共有しているのだな、ということでした。それはコミティアのブースに座っていると、なぜかなかなか感じられなかった感覚でした。
自分たちがこだわっているところや、自分たちが好きだと感じている良さに気づいてもらえる。それはかなり嬉しいことです。
すいかとかのたねは、少し時間をかけて、あるいは体力を使って向き合ってもらわないとわかりづらいものなのかもしれないとは思ってます。いつも悩む本の装丁部分も、あの場では好まれづらい文脈のものなのかも…とかも思ったり。今後もクオリティは上げていきたいですが。
今回も、やっぱ響かね〜!というフラストレーションは多々ありましたが、それでも、やっぱ見てくれる人いた!という喜びを持ち帰れたので、今後の制作の励みにしたいと思います。
ということでありがとうございました〜!
自分らの宣伝に使ってしまったようなのも悪いので、『ゆうとぴあグラス』を強くおすすめしておきます。面白いです。
それからこちらは森田るいさんの素晴らしい漫画『我らコンテクティ』について、中山の個人ブログに載せた文章ですが、もしかしたら読む人もいるかと考え、こちらにリンクを掲載します。
ではまた。通販もよろしくお願いします。
すいかとかのたね5号の中身(中村悠一郎について)
suikatokanotane.hatenablog.com
5月5日(土)のコミティアが明日にせまり、準備も一段落というところ。
5号は久しぶりに出したボリュームの大きい冊子なこともあって、宣伝に力が入りすぎている節もあるものの、手にとって読んでもらえればその良さが伝わるものができたと思っている。
理想としては、この雑誌を読んだ人が、自分も何かを作りたいと思ってくれるものになっていると、この上なく嬉しいっす。
さて、ツイッターで行なっている漫画紹介の補足と、そこでは扱わなかったページについてのちょっとした紹介をしたいと思っている。
中村悠一郎『micronesia』
肩書きとしては「ガチャガチャ作家」。大学院で彫刻を学びながらガチャガチャを作品として作っている。
2014年から武蔵野美大の芸術祭に出していた「しょうもないガチャ」は連日売り切れるほどの人気で、彼はこの制作で確実に人としての面白さのステージが上がってしまったと思う…。そのくらい面白くて広がりのあるものだった。
ガチャガチャの商品として作り始めた彼の作品は、100円ショップや東急ハンズで集めた素材を使った、手のひらサイズのもの。各素材の性質を生かしながら個性的な形を生み出していて、その作り方や見立てにも、彼にしかないユーモアがあってすごい。
そんな彼が5号で担当したページは、見開きいっぱいに作品を並べた写真ページ。
『ミッケ!』(小学館)の写真の小物が、もし全部自分の作品になったとしたら、という発想からこういった写真になったという。
彼の家にあった何百という作品の中で、いま気になるものや忘れかけていたもの、なぜ作ったか忘れたものなど、なんとなくいいと思ったものをチョイス。それらをランダムに散らして撮影されたのがこの写真らしい。
文章も付ける想定でいたものの、これらの小さい作品には、モチーフや名前がないことから、説明やストーリーをつけるのではなく、小さな言葉が作品の間に散らばっているという形になったのだとか。
文章は、5号に小説を寄稿している槙元伶によるツイートの抜粋。なんてことないテキストの方が面白いものになるのでは、という中村の判断から、槇元が自分のツイートから選んだテキストが使われている。
「文章と作品に関係性がない」ということが中村にとっては重要で、「一人で両方やっちゃうとどうしても答えになっちゃうから」ランダムな組み合わせで、「読者がそれぞれ自分で眺めながらなんとなくつながりを発見できたりするように」意図されている。
こんな感じ(これは拡大図)。
4号に収録されたしょうもないガチャのしょうもない広告
彼はすいかとかのたね2号と3号で『エデュケーション』という4コマ漫画作品を発表しているのだが、コンセプチュアルでかなり笑える漫画を作り出していて感動した。教科書の図版をサンプリングしながら、教科書の中にひそむ可笑しさや違和感を見事にあぶり出して、新たな価値付けがされている。非常によくできたパロディだと思う。
もう買えない号なのが残念だけど、コミティアでは既刊も読めるようにしておくので読んでもらえたらと思う。
すいかとかのたね5号の記録
2014年、大学2年の晩夏から作り始めた雑誌『すいかとかのたね』は、幸運にも3年半以上続いていて、先週ついに第5号が完成した。
隠されたヒロインともう一つのストーン・オーシャン
はじめましてこんにちは!漫画雑誌「すいかとかのたね」の野口明宏です。
僕は初ブログなのですが、編集長に漫画に関してなら好きに書いていいと言われたので思い切って大好きな『ジョジョの奇妙な冒険』について書こうと思いますよ!妄想と引用のアラベスクと言った趣で長いです。こんなことになるとは…
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2011年フロリダ州 州立グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所の中のある一室。部屋は本棚に囲まれ、壁にはリキテンシュタイン、テーブルには飲みかけのフロリダオレンジジュースの缶とマーズチョコレート、部屋の中央には大きなグランドピアノが置かれている。本来は存在するはずのないその部屋には野球のユニフォームを着た白人の少年と少年に導かれて迷い込んだドレッドヘアのヒスパニック系の女、彼女をまっすぐな視線で見つめるグランドピアノの中に横たわる白人と思しき男性、そして同じグランドピアノに寄りかかりこちらも迷いこんだ女を力強い視線で観察する華奢な白人の女性、の4人がいた。彼らは少年をのぞき皆囚人だった。そして、無口で力強い視線を持った白人の彼女/彼が本稿の主役であるナルシソ・アナスイである。
ヒスパニック系ドレッドヘアの女囚、エルメェス・コステロはこのときあった華奢な白人女性がまさか次に対面するときには性別が男性になっているとは思っていない。部屋の様子を漫画越しに見つめている僕たち読者だってそうだし、もしかすると作者である荒木飛呂彦もそうかもしれない。
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この記事では『ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーン・オーシャン』(1999〜2003)までを読んでいて、なおかつ時間を持て余した人が読むことを想定していて、かなり説明不足であったり、もしくは決定的なネタバレがあることを先にお伝えしておく。ストーンオーシャンを未読の方はここでお別れだ。
主題に入る前にざっくりと第6部の設定をおさらいしておこう、舞台は2011年(連載開始は1999年なので当時からすると12年後の世界ということになる)のアメリカ、フロリダ州。空条承太郎の娘・空条徐倫は、恋人とのドライブ中に起こした事故によって「州立グリーン・ドルフィン・ストリート重警備刑務所」に収監されてしまう。面会に現れた承太郎は、この事故がかつて自分が倒したDIOの関係者によって仕組まれた陰謀であることを告げ、徐倫に脱獄を促すが、そこに謎のスタンド「ホワイトスネイク」が現れ、承太郎の「記憶」と「スタンド能力」をDISC化して奪い去ってしまう。徐倫は植物人間となった父親を救うために「記憶」と「スタンド」のDISKを取り戻さなければならない…父と娘の物語、そしてジョースター家を巡る呪いの物語でありながら、歴代ジョジョの中で唯一の女性である徐倫の奮闘を描くこの物語は荒木飛呂彦にとって力強い女性を描く挑戦だった。
(脱獄囚の兄弟を描いたドラマシリーズ『プリズンブレイク』(2005〜2013)も終盤の舞台はフロリダらしい。ストーンオーシャン全体の元ネタは『ショーシャンクの空に』(1995)じゃないかな?と思われる。図書室の描写や抜け穴、庭でのキャッチボールのシーンなどがあるので。脱獄ものとしてはさらに前の『大脱走』(1963)は荒木飛呂彦のお気に入り映画らしい)
主人公に女性である空条徐倫、相棒であるエルメェス・コステロやフー・ファイターズ、徐倫と同じ部屋のグェスもまた女性という中で登場したナルシソ・アナスイも冒頭で描写した初登場回「エルメェスのシール②」では女性だった。
次の登場はその3週後、「6人いる!その②」という回(タイトルはたぶん萩尾望都『11人いる!』(1975)のパロディで7部スティールボールランではそのまま「11人いる!」という回があった気がする)に扉絵のみ登場である。そこでもアナスイ♀が登場し、その扉絵はおおよそ徐倫、エルメェス、ウェザーリポート、エンポリオとアナスイ♀が主人公のパーティといった描き方に見える。その次の登場するのはなんとその31週後「ウルトラセキュリティ懲罰房」の回で、屋敷幽霊の部屋で野球ユニフォームの少年エンポリオに助けを求めに来たフー・ファイターズはそばにいたアナスイにも協力を求めようとするが…「彼に期待しちゃだめだ アナスイは協力しない」とエンポリオに言われたフーファイターズは「『彼』?(男囚か⁉︎…こいつ…⁉︎)」と読者と声を揃えることになる。翌週「その名はアナスイ」の回で彼にはなんでも分解してしまう癖があり、ガールフレンドの浮気現場に遭遇した際彼女と浮気相手の2人の身体を"永遠にくっつかないように"バラバラにした殺人犯として投獄されたこと、スタンドはスピードとパワーを物体の中に潜行させるダイバー・ダウンであることが明かされた。
間違いなくここからアナスイは男性として描写されていく。女性らしい描写で本編に登場したのは登場回の一回だけ(扉絵を含めれば2回)だ。「その名はアナスイ」で登場したアナスイ♂はフー・ファイターズの要請を承諾し懲罰房へと隔離された徐倫を救出に向かう。その際アナスイ♂は「彼女を全力で守ってやる。気に入ったんだよ、初めて見た時から何もかもな。父親のためにわざわざ「懲罰房」まで行ったという今回のその覚悟がさらに気に入った。彼女を守りきったなら…オレは彼女と結婚する。祝福しろ。結婚にはそれが必要だ」といきなり徐倫との結婚を宣言する。どうもそれまで作中にはアナスイと徐倫が直接対面したシーンはないが、一方的に見ていたという可能性もあるし、矛盾だとしても主要キャラクターの性別が変えられることに比べれば大した問題はない。
作中ではその後、事あるごとにアナスイ♂が徐倫へとアピールを続けるが、その度徐倫にあしらわれてしまう。
懲罰房でのサバイバー戦(意味もなく殴りあう様子が『ファイトクラブ』(1999)を元ネタにしていると思われる)が終わり孤軍奮闘する徐倫はそのままドラゴンズドリーム戦(その回のタイトルは「燃えよドラゴンズドリーム」だったのでこれは『燃えよドラゴン』(1973))になだれ込むが、そこで到着したアナスイは徐倫に出会い頭「愛してるぜ…ここに来るのがとても楽しみだった…」とかましてくれる。
別の場面ではスタンド攻撃を受けた徐倫の身体から生えた植物をアナスイが口に咥えてその物質の安全性を判断しようとするといった行動にも出ていたりと、場面がどれだけ切迫していようがアナスイは関係なく徐倫にアプローチしていくわけだが、状況や状況なだけに徐倫はそれらのアナスイの言動がいまいちピンと来ていない様子である。
。
徐倫に対して何度となくアプローチしていくナルシソ・アナスイは初登場時なぜ女性として描かれ、2回目以降は男性として描かれたのか?それを考える上でもう1人の人物について考えてみたい。
3.
リーアム・ニーソン主演『96時間』(2009)では元CIA工作員がたった1人で誘拐された娘を奪還する話だが、このリーアム・ニーソンは仕事と家庭の狭間にあって家庭をおろそかにして別居離婚してしまう。ストーン・オーシャンでは冤罪で捕まった徐倫を救おうとする承太郎はがまさにシンクロするキャラクターだ。とは言っても仕事と家庭の狭間で家庭をおろそかにしてしまう父親というのは洋画の世界では結構テンプレっぽくもあるんだけど(荒木飛呂彦が敬愛するイーストウッドは『人生の特等席』(2012)でまさにこんな役回りを演じている)。ただストーンオーシャンではジョンガリ・A(『ジャッカルの日』(1973)に出てきたライフルの隠し方)とホワイトスネイクのコンビの前に承太郎が倒れて以降この役割は逆転してしまう。女性であり娘である徐倫が父親を救う話に変化するのだ。その様子は、3部スターダストクルセイダーズで承太郎がホリーを助けるために旅に出たのと同じである。
6部の場合は徐倫がヒーローでありマリオで承太郎はヒロインでありピーチ姫なのだ。
その後承太郎のスタンド『スタープラチナ』のディスクを回収することとなるサヴェジ・ガーデン作戦で見た光景(どの部分とは言わないが)はまさに『マグノリア』(1999)だ。
4.
荒木飛呂彦は両親が不在の主人公、半グレで刑務所にいる主人公、片親な上にネグレクトの環境で育った主人公、自分の軽率な行動によって下半身不随になった主人公、記憶喪失の主人公そして、ストーンオーシャンでは父親の愛を感じることが出来ずに育ちその上冤罪によって刑務所に入れられたしまった主人公を描いている。さらに少年誌上で言えば女性主人公であるということもマイノリティーなのだ。それでも徐倫はマリオとしての役割を果たしたし、承太郎はピーチ姫の役割を十分に果たした。(『スターウォーズ フォースの覚醒』(2015)『ローグワン スターウォーズストーリー』(2016)『ゴーストバスターズ』(2016)などの映画ではそれまでのシリーズと打って変わって女性を主人公に据え直したものも多い)ではアナスイは?性別的なステレオタイプを脱したのか?
ここでコミックナタリーに掲載された、『帝一の國』の古屋兎丸と『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』西義之の対談のurlを貼っておく。
http://natalie.mu/comic/pp/babiro/page/3
ここでは、西義之がジャンプで同性愛を匂わせる描写をしたら編集者に怒られたという内容のことを言っていて、それを受けて古屋兎丸も「ジャンプで同性愛はねぇ(笑)」と受け答える場面がある。ジョジョのファンの間でまことにしやかに囁かれているのはまさにこの部分で、アナスイは女性のまま徐倫に想いを寄せるキャラクターだったはずが編集者に止められたために男性のキャラクターに変更して描かざるおえなかったのではないかという憶測である。(とは言っても『ハンター×ハンター』(1998〜)ではヒソカがゴンに性的興奮を覚えるシーンがあったりしたが。)
第6部の主人公は父親の愛情を感じれず、冤罪で投獄された上に少年誌上でも珍しい女性主人公でありながら、セクシャルマイノリティーでもあったのだろうか?
6部の舞台であるフロリダといえば半島で海に囲まれていて、ウォルトディズニーワールドやユニバーサルリゾートやケネディ宇宙センター(ケープカナベラル)なんかがあって観光地として有名だ。(東京ディズニーランドの最寄駅舞浜はフロリダ州のマイアミから取ってる)。ディズニーワールドは厳密にはフロリダのオーランドにある。州都はタラハシーという町(『ゾンビランド』(2009)でウディ・ハレルソンが名乗っていた仮の名前である)。
監獄の砦ジェイルハウスロック(演出等もろにノーランの『メメント』(2000)加えてスタンド攻撃を受ける最中に徐倫が『シックスセンス』(1999)のネタバレをするというシーンも)をくだし、脱獄を成功する徐倫達はオーランドへと向かうことになる。
赤道に近い方がロケットの発射に適しているからとのことでフロリダにケープカナベラルがあるのだがそれゆえに、『アポロ13』(1995)『アルマゲドン』(1998)『コンタクト』(1997)『トュモローランド』(2015)『ドリーム』(2016)などなど宇宙系映画の舞台になっていることが多い。フロリダが舞台ということで勘のいい読者はすでに後半の展開を多少予想してた人もいたのかもしれない。最近個人的に見たものだと宇宙系ではないけど『夜に生きる』(2015)はフロリダが舞台で印象的な海岸が出てきた。
物語の終盤、オーランドの海岸沿いでプッチ神父との最後の戦いが始まる。アナスイが徐倫の父親である承太郎にこう申し出る。「ところで…おれは全力であなたのお嬢さんを守ります。すでにのっぴきならない事態に陥ったようだが、この闘いは生き抜く…だからお嬢さんとの結婚をお許しください。こんな時になんだが…『許してくれる』だけでいいんだ。あなたが…許してくれるだけで…それだけでオレは救われる。何もオレは最初から…徐倫と結婚できるなんて思っちゃあいない…オレの殺人罪は事実だし、徐倫がオレの事を好きになってくれるわけがない事も知っている…だが…徐倫が父親であるあんたから受け継いでいる清い意思と心は…オレの心の闇を光で照らしてくれている…崩壊しそうなオレの心の底をッ!今のオレに必要なんだ…一言でいい…「許す」と…オレの心を解き放ってほしい…‼︎ここで生き延びたなら結婚の「許可」を与えると!」
そんなアナスイに対しての承太郎の返事は淡白で「……言ってることがわからない……イカレてるのか?……この状況で」である。
アナスイが最初に徐倫との結婚を宣言した時も彼は「結婚」には「祝福」が必要だと言い、そしてこの場面では、徐倫が好きになってくれるとさえ思ってないけど、それでも「許す」の一言を求めている。アナスイにとっては徐倫と結ばれることに必要なのは他人からの「祝福」なのだ。一人称である「オレ」が「私」に変わってたとして、この文章はより意味が通る気もする。これまでのピンと来ていない徐倫や父親の承太郎のリアクションももし仮にアナスイか女性だったなら頷ける。あくまで憶測の域を出ないながら、ここには隠されたヒロインとしてのアナスイが見え隠れするし、もう一つのストーン・オーシャンがあるように思う。
ラスト、宇宙を一巡させ、「覚悟」のある世界を作るというプッチ神父の思惑は半分は叶い、半分は叶わなかった。元の宇宙とは違う、未来の決定されていない自由な宇宙が生まれた。その先でもアナスイはアナキスとして徐倫はアイリンとして2人でアイリンの父親に結婚の許しをもらいに行くという。アナキスとアイリンのカップルが仮に同性で法的に認められないとしても2人は変わらずに父親の「祝福」を求めてるだろう。ある意味でそれだけが必要なのだから。
(徐倫はジョジョ史上初の女主人公だが、アイリンという名前は荒木飛呂彦漫画史上初の女性主人公『ゴージャス☆アイリーン』(1984)の主人公アイリン・ラポーナの名前で、事実6部連載終了時には徐倫のカラーイラストとアイリンのカラーイラストをジャンプに掲載していて、そう言った意味あのラストは荒木飛呂彦の作家人生をも"一巡"させたと言える。)
2012年の5月にはオバマ元大統領がテレビのインタビューで同性婚を支持する発言をしたことで話題になる。保守派の政治家サラ・ペイリンの娘ブリストルは「オバマは『glee』(2009〜2015)の見過ぎだ」と非難したという。(webちくまの大和田さんの記事からの引用です…)
くわえて2015年6月26日、アメリカ最高裁の審議の最終投票5対4票で、"同性婚禁止は違憲"と決定、よって全州に同性婚法案を認めると、アンソニー・ケネディ最高裁判所判事が公に声明を発表した。フロリダの海岸線をドライブする2人にもこれは例外ではない。
(映画ネタを盛り込もうと思い結果読みづらくなってしまっていたごめんなさい。ちなみにエルメェスの復讐回「愛と復讐のキッス」(『愛と復讐の挽歌』(1988))では『ゾンビ』(1978)と『インビジブル』(2000)をモチーフにしたようなスタンド、ヒンプビズキットが登場し、エルメェスはここで『007シリーズ』(1962〜)のボンドよろしく「キッス」は復讐の「許可証(ライセンス)」だと言う。
後半に登場するヴェルサスの幼少期のの設定は明らかにアメリカの大ヒット小説「HOLES」(1998)から持って来ていて高校生の頃小説を読んだときはあまりのそっくりさにに笑ってしまった)
年代順サブテキスト
『007』(1962〜)
『大脱走』(1963)
『燃えよドラゴン』(1973)
『ジャッカルの日』(1973)
『11人いる!』(1975)漫画
『ゾンビ』(1978)
『ゴージャス☆アイリーン』(1984)漫画
『愛と復讐の挽歌』(1988)
『ショーシャンクの空に』(1995)
『アポロ13』(1995)
『コンタクト』(1997)
『HOLES』(1998)小説
『アルマゲドン』(1998)
『ファイトクラブ』(1999)
『マグノリア』(1999)
『シックスセンス』(1999)
ストーンオーシャン連載開始(1999)
『メメント』(2000)
『インビジブル』(2000)
ストーンオーシャン連載終了(2003)
『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』(2004〜2008)漫画
『プリズンブレイク』(2005〜2017)ドラマ
『96時間』(2009)
『ゾンビランド』(2009)
『glee』(2009〜2015)ドラマ
『帝一の國』(2010〜2017)漫画
『人生の特等席』(2012)
『夜に生きる』(2015)
『トゥモローランド』(2015)
『スターウォーズ フォースの覚醒』(2015)
『ゴーストバスターズ』(2016)
『ドリーム』(2016)
『ローグワン スターウォーズストーリー』(2016)
野口明宏
漫画雑誌「すいかとかのたね」
Twitter @suikatokanotane
Mail suikatokanotane@gmail.com
高野文子「美しき町」の美しさ(3)
お久しぶりです。
途中で止まってしまっていた高野文子『棒がいっぽん』収録の短編「美しき町」についての記事を書き終わらせようと思います。
前回までの記事はこちらです。
suikatokanotane.hatenablog.com
suikatokanotane.hatenablog.com
・多彩な視点の動きと切り取り
・連続したコマの時間の動き
・手前奥の表現
・グラフィカルな切り取り
・フラッシュバック
・大胆な省略
上記の6つのポイントに沿ってこの短編での高野文子の技術を書いてきましたが、今回は最後の二つについて書こうと思います。
- フラッシュバック
この短編では基本的に直線的に時間が進んでいきますが、冒頭で出たシーンが終盤でフラッシュバックのように出てくる場面があります。
それがこのページです。
前回の「手前奥の表現」でも挙げたコマが含まれていますね。終盤で二人が静かに夜明け前のひと時を過ごす場面です。漫画内の時間はナレーションに導かれるように進んでいきますが、ふと二人での散歩のワンシーンがフラッシュバックのように挿入されます。このさりげなくも効果的な入れ方は見事です。漫画内で”今”起きている出来事と時間軸上で離れた出来事を相関関係でつなぐ方法として非常に巧みです。イケてる。
例えばこのフラッシュバックがない状態(夜明け前の場面のままコマが進んでいく)を想像してみてください。それでもこのナレーションの意味はおそらく通じます。ですが、その状態のときに表される内容と、フラッシュバックのコマがある状態の内容では、感じとれるものが違うのではないでしょうか。この絵が入ることによって、ナレーションの文字を追うだけでは出せない時間の広がりや思い出の切なさや輝かしさが表現されています。文字(ナレーション)と絵の間に少し距離を作ることでより豊かな表現になっているのです。
さて、ここで一つの疑問が浮上します。このフラッシュバックは一体誰が思い出した映像なのでしょう。それとも誰かの思い出とは違うものなのでしょうか。普通に読めば、夜明け前の二人、あるいは「三十年たったあと」の二人が思い出したものののように思えます。ですが、このフラシュバックの引いた視点はどうも二人のものではないようにも思えます。不思議ですね。これに関しては、この短編全体についてのある想像をお話したいのですが、それはこの記事の最後に回したいと思います。
ここでまた注目したいのはこのフラッシュバックがクローズアップしていくのが二人ではなくて花であるということです。これはアザミの花でしょうか。二人の足元で咲いています。
記憶というのは不思議なもので、何の気なしに見ていたものが意外に記憶に残っていたり、またはそれが記憶を引き出すきっかけや入り口になることもあります。時間が経ってふと思い出した昔の記憶の一部がたまたまそこに咲いていた花であるということも大いにありうるでしょう。僕も、3歳の時に通っていた保育園を思い出そうとしても、当時使っていた弁当箱ばかり克明に思い浮かんできたりします。まあそれはともかく、こういった細かい描写に高野文子の精緻な観察眼や感性を感じることができます。きっと普段から些細なことを見逃さない目で見ているんでしょう。そういえばこの短編集には人間の家で借りぐらしをするコロボックルの漫画もありました。彼女の作品に感じるハッとするリアリティはこういうところに潜んでいるのではないでしょうか。
- 大胆な省略
次に高野文子の醍醐味とも言える、限りなく省略されたセリフ回しについて考えていきたいと思います。まず下のページを見てみてください。
このページの構図、コマ割りの興奮するくらいのダイナミズムはさておいて、このセリフについて、(今これだけ見ても意味が分かるわけはないのですが、)最初にここを読んだ時、僕にはこのセリフが何のことを言っているのかわかりませんでした。(もちろん僕の理解能力の不足もありますが)
これは、少し前の場面で井出さんという隣人に意地悪なことを言われた夫のノブオさんを気遣ったサナエさんのセリフなのですが、面白いのは、ノブオさんが意地悪を言われてからこのセリフが出てくるまでの何ページかの間、二人は一切この話題に触れていなかったということです(この直前でサナエさんは関係ない世間話をしています)。何についての話題かも言わず、急に何ページか前の場面の話をし出すサナエさんに間髪入れず答えるノブオさん。これを見るだけで二人は何も言わずとも同じ事をずっと気にしていたことが伺えます。二人だけに通じていた共通の思いがあったというわけです。
しかし多くの読者はこの場面で一瞬混乱するでしょう。唐突なセリフで何の話題かが見えなくなるからです。しかしそこで少し考えれば何の話題か分かるはずです。その加減が絶妙なんです。
この場面では、行間を読者に想像で補わせることで、無駄な説明ゼリフを省くと同時に、二人の関係を描写することもできています。ただ難解にしているわけではなく、無駄を削いでいくことで、ことばの外の豊かな情感を生み出そうとしているのです。これは先ほどのフラッシュバック表現でも触れたことですが、絵と言葉の間、そして言葉と言葉の間に隙間を作ることが逆に豊潤な表現を生むというのが面白いなあと思います。
このような省略の手法は高野文子の作品において全般的に行なわれています。このセリフ回しの感覚は高野文子フォロワーと言われる市川春子にも受け継がれている部分なのではないかと思います。物語を読み解く楽しさが生まれるので、ついこのようなブログを書きたくなってしまうわけです。
さて、ここまで3回に分けてこの短編の表現方法について書いてきましたが、内容についても少しだけ触れてみたいと思います。
この作品の中で描かれている時代はおそらく高度経済成長の前期あるいは直前あたりでしょう。工場のある町と、その従業員たちが住む団地がこの物語の主な舞台です。ですが、なぜこの時代の物語を描いたのでしょうか。
この短編が最初に発表されたのは1987年の『プチフラワー』10月号のようです(『ユリイカ』とWikipediaを基にした情報)。この時高野文子は29歳。11月が誕生日だそうですのであと1ヶ月ほどで30歳になろうというところです。あれ?この数字にピンときませんか?そうです、先ほどの画像にありました、作中のクライマックスでのナレーションで「たとえば三十年たったあとで」という言葉が出てきます。
そう考えてみると、この物語のサナエさんノブオさん夫妻の年齢はちょうど高野文子の親世代とぴったり一致するのではないでしょうか。
先ほど僕が少し匂わせた「この短編全体についてのある想像」とはこのことです。つまり、この作品は高野文子が自分の親について描いた物語ではないか、という想像です。
でも結論を急ぐ前に、この作品が描かれた時代の1987年についても考えてみるとこの時代設定の意味がさらにわかってくるかもしれません。1987年は、バブル景気が始まろうとしているその時です。データ上ではバブル景気は1986年12月から1991年2月までとなっていますが、実際に人々が好景気を感じ始めたのは1988年ごろからだと言います。つまり1987年はまさにバブル前夜。その時代に描かれたこの物語にどのような意味が出てくるのでしょうか。
先ほど書いたように、この物語の時代は高度経済成長の前期、あるいは前夜に見えます。この後の時代でさらに経済が盛り上がり、町が栄えていき、一方で公害が起こり…という未来を高野文子は知っています。その上で、その喧騒にのまれる直前のある静かな夜を過ごす夫妻を描いています。もしそれが自分の親だとしたら。そして現在(1987年)自分が置かれている時代と同じものを感じているとしたら。
好景気、そして喧騒の予感を感じながら、同じ状況にあった自分の親について思いを巡らして描かれた作品がこの「美しき町」である、というのが、この物語についての僕なりの結論です。「美しき町」というタイトルはその後経済成長とともに失われていく美しさへの皮肉のようにも思えます。
この短編の全編を導くナレーションも、登場人物たちに親しみを持ちつつも三人称の視点で進んでいきます。これが二人の娘たる高野文子によるナレーションだとしても、しっくりくるのではないでしょうか。とすると、先ほど取り上げたシーンでのフラッシュバックの引いた視点、これももしかして娘のものだったり。なんていう想像もアリじゃないかと大真面目に思っています。
以上、高野文子「美しき町」についての一考察でした。素晴らしい作品ですので、読んだことのない方も是非読んでみてください。
画像は全て高野文子『棒がいっぽん』 (マガジンハウス)「美しき町」より
中山望
漫画雑誌「すいかとかのたね」
Mail suikatokanotane@gmail.com